村田新八は「戦場のアコーディオン弾き」だったか | 清明
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村田新八は「戦場のアコーディオン弾き」だったか

 幕末明治好きの方には、村田新八=アコーディオン(手風琴)というイメージが定着しているのではないでしょうか。実際、ネットで検索してみると、「村田新八は戦場でアコーディオンを弾いていた」云々という記述がたくさん見つかります。
 ドラマ「田原坂」でも、新八がアコーディオンを弾くシーンが出てきます。大河ドラマ「翔ぶが如く」では、城山総攻撃の前夜、新八が弾いていたアコーディオンを曲の途中で燃やしてしまうシーンが印象的です。

 さて、『西南記伝』の「村田新八伝」には、こうあります。
 「新八、平生美術を愛し、又、音楽を好む。其家に在るや、常に風琴を携へ、容易に手を離さざりしと云ふ」
 『西南記伝』は明治四十年代の成立で、この頃には新八を知る人々も当然生きています。この本には新八のいとこ、高橋新吉の証言も載っていますし、そういった周囲の人々から情報収集したのではないでしょうか。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』では、新八が洋行中にアコーディオンを手に入れたとしていますが、当時の事情を考えれば、そう考えるのが自然でしょう。

 そうは言っても、新八がアコーディオンを弾いたというのは本当なのか、とどこかで引っかかっていたところ、ある意味決定的と言えるかも知れない、ご子孫の証言を見つけました。新八の次男・二蔵(経明、西南戦争後基太村家に養子入り、経義と改名)とその娘の寿(とし)はアコーディオンが上手だった、というのです(「歴史研究」1992年11月号、加来耕三「村田新八とその次男」)
 ということは、アコーディオンは次男の家に伝わったことになります。つまり、新八がアコーディオンを日本に持ち帰り、「家で」たしなんでいたのは、おそらく事実でしょう。
 赤瀬川隼の小説『朝焼けの賦』では、新八よりも次男の二蔵の方がアコーディオンがうまくなった、と書かれていますが、これも作者の創作ではなく、おそらくこの記事を見たのだと思われます。 

 では新八は戦場でもアコーディオンを弾いたのか。残念ながらそれはないだろう、というのが現時点での結論です。なぜなら、戦場で西洋の珍しい楽器を弾こうものなら、目撃した人々が書き残すはずだからです。言い伝えられているとおりの、山高帽にフロックコート、日本刀を腰に、という姿で、戦場においてアコーディオンを弾く。劇的で強烈で、印象に残らないはずがありません。
 しかし、数多く残されている西南戦争の従軍日記や、薩軍の口供書にはそういった目撃談はないようです。現実的に考えて、ある程度値も張り、貴重かつ壊れてしまったら直しようもなくかさばるものを、戦場にまで持っていくでしょうか。形見とすべく、家に残していくのが普通ではないでしょうか。
 しかし、小説・ドラマなどの創作では、こんな絵になる設定を放っておくはずもなく、村田新八は戦場でアコーディオンを弾いていた、というイメージができあがったのでしょう。
 ちなみに、維新ふるさと館の展示パネルには、「村田新八のアコーディオン」とキャプションがついた古いアコーディオンの写真があります。この写真の出所が分からないか(戦前にどこかで展示されていたのではないか)、ちょっと調べてみたのですが、今のところつかめていません。

 新八が戦場でアコーディオンを弾いたという話には、当時からなんらかの元ネタがあったのか。それとも『西南記伝』の記述からイメージを膨らませ、比較的後世に作られたものなのか。枝葉ではありますが、もう少しつっこんで調べてみたいところではあります。

※新八が戦場でアコーディオンを弾いていたことが証明できるような史料をご存じの方は、ぜひご教示下さい。
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